クリストファーノーランが好きだ好きだと言いつつ、彼の初監督作「FOLLOWING」をなんだかんだ見れてないんだーってもう何年も言い続けていることに嫌気が差して、ツタヤまで走った。
映画の感想としては、コーヒー飲みたくなった。
ぐっとくる映画はコーヒーを飲みたくなるものだ。
映画を見て、クリストファーノーランの頭の良さがちょっと伝染したのか、いろいろ思い浮かぶことがあったので書き落としておこうと思う。
昨日とあるきっかけで、映画監督を志す青年の話を聞く機会があった。
その彼が話すことが、いささかおもしろくなかったので、聞き流していたんだけど、日本の映画監督を目指している人って、同じようなつまらない話を真面目に語り出す傾向にあると思う。
その昨日の彼にも会うのなんて初めてなのに、よく大学の頃聞いていたような話とテンション。
日本に多くの映画監督を目指す人がいるけど、誰が花を咲かせて、誰が夢破れても同じような映画作るんじゃないの?なら、誰でもいいんじゃないかと思う。
つまり、映画に関わっていない人が映画を作った方がおもしろいんじゃないかと。
例えば、立派な映画監督が周りにつけるようなスタッフと環境だけを用意して、監督を医者だとか経営者とか全く映画に関わりのない人が映画を撮ってみる。(出来るだけ頭のいい人が好ましい気がする)
その人が持つ人生観とか美学を周りが協力して、ひとつの映画として形にする。
その方がよっぽどおもしろい映画が出来る気がするし、なんか近い将来にそういうスタンダードがある日本っていいなーって思って。
半年のちょっと仕事休んで、映画を撮る。みたいな。
そんなことを可能にするための新しいビジネスモデルとか。
と、考えたけど、ただお金のある人が自己満映画を撮っても意味がないから、それはなしにして。
自分でそういう人をスカウトして一緒に撮影していくとか。
多分、自分はいろんなものをいいと思ってしまうんですよね。
最高は一つだけじゃないから、世界中に散らばっているナニカにピンと来たら、それはありだなってどんどん集めていく人なんだと思う。
だから一つのクライマックスにまとめ上げる映画を作るのに苦労するのかなって。
誰かの持っている価値観を投影して、ゴールを定めてそこに向かっていく方がちゃんと形にすることが出来るんじゃないかと。
それに加えて、周りの映画監督とは全く環境の違う所で生きていて、全く違う物の見方が出来て、新しい切り口の映画が生み出されて、彼自身の人生において映画を制作する経験が出来るって、なんだかいいなと思った。
っていう、映画でも撮ろうかなー。
さぁ、映画って何回言ったでしょう。